●雪上車が置かれた経緯 八甲田の山々がある青森の地域のみなさんのために、 感謝の意と、地域おこしの意味もこめて、八甲田の麓にある「ねぶたの里」へ、数台ある内の一台を譲りうけました。 撮影は、実際に真冬の八甲田山でロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケだったそうです。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走したという話も残っており、その過酷さがわかるエピソードとなっています。 過酷なロケ地まで、芸能人やスタッフたちを移動するために、実際に使われた雪上車を大切に保存展示しています。 スタッフたちにとって大切だった雪上車のために、著名な芸能人の方々のサインが車中に書かれております。 |
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●ストーリー 今から約100前の明治35年1月。吹雪の八甲田山。 三上救助隊一行は、雪に埋れて直立不動で気を失っている後藤伍長を発見した。 これによって、青森第5連隊雪中行軍は、210名の多くが遭難死する最悪の結果の雪中行軍であることが判明した。これが「八甲田山雪中行軍遭難事件」である。 「雪の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」 師団長は二人の大尉に直接声をかけた。二人は無茶と思ったが拒否することはできない。 大国ロシアとの戦争をひかえ、寒冷地での軍事行動の訓練と研究が急務だったからだ。 弘前第31連隊の徳島大尉と、青森第5連隊の神田大尉の二人は、勉強会をひらいて親交を深め、 「この次お逢いするのは、雪の八甲田で」と、再会の約束を交わした。 少人数・最低限の装備で出発した徳島隊は、11日間の壮大な行程を、地元民間人の協力を得て、いくつかの困難をこえて走破していった。 一方の神田隊は、200名という大隊の行軍が決定し、上官の山田少佐が特別隊として同行することになった。しかも行軍がはじまると指揮権は神田大尉か山田少佐なのか混乱していた。 神田隊の雪中行軍は、橇隊が遅れ、吹雪が激しくなり、日が暮れ、目的地に着くことができず、雪を掘って露営したが、寒さと空腹で耐え切れず、帰営の決心をしたが、夜中に行軍を再開したために道を見失う結果になった。しかし、容赦ない猛吹雪は、隊員の体力と生命さえも奪っていった。 …死に物狂いで八甲田を踏破した徳島大尉を待っていたのは、永遠の眠りについた神田大尉だった。 引用(映画「八甲田山」ファンサイト) |
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